新聞に乗らない内緒話

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コラム

70歳と「楢山まいり」

 70歳になった。「古希」だが、感慨はない。
 節目というならばむしろ「還暦」であったろうが、当時はまだ〝社員〟として記事を書いていたし、連載も抱え日々忙殺されていた。現在はこのコラムだけがノルマで、他にボランティア活動、月々少額だがアルバイトをこなしている。分相応であろう。
 ふと「楢山節考」を思い出した。
山奥にある貧しい村には70歳になると「楢山まいり」に行くという掟(おきて)がある。主人公おりんは69歳の未亡人。妻を亡くし寡夫となった息子の辰平と、その子どもたちの世話をして暮らす。
 その辰平に後妻が決まり、これで安心して「楢山まいり」に行けると意気込むが、辰平は気が思い。「楢山まいり」とは姥捨てのことであり、その日が来たら自分が母を背負って山に捨てに行かなければならない。
 一方でおりんは石臼に自分の前歯を打ち付け、砕く。貧しくて満足に物が食べられないこの村で、年老いて健康な歯を持っているのは「食い意地が張っている」と見なされる。おりんは、世間的に恥ずかしくない老婆になるために自分の歯を折ろうとする。
 ところで、母方の叔父は今年96歳。先年会食したら鰻重、白焼をペロリと平らげたうえにデザートに果物、アイスクリーム、締めに文明堂のどら焼きを所望した(もちろん全部食べた)。
 相変わらずの健啖ぶりだが、自慢は「8020」である。ご存じない方に説明するなら、厚生労働省と日本歯科医師会が推進している「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」運動である。叔父は23本が自前である。
 歯に関する限り、叔父は確かに優等生ではあるが、それ以外は車椅子生活で、会話に妄想、暴言が混じり、意識が混濁した先日、救急車で施設から病院へ運び込まれた。新たな高齢者向け施設も準備されているのだが、担当医師から退院の許可が下りない。肺炎の悪化、抗生物質の投与が続けられている。芳しい状態ではないのである。
 しかし食欲だけは減退しない。
 病院の食事で、さすがに以前のような美食は望みようもないが、食欲は落ちない。病が癒えたら再び、自分の歯で好物にありつこうと叔父は考えているのであろう。堂々と「食い意地」をアピールし、死に抗っているのかもしれない。「食欲がある間は大丈夫ですよ」と医師は言い、近親者は「やっぱりねぇ」とささやきあい、妙な納得をしている。
 ちなみに当方70歳となったが歯医者にはほとんど縁がない。粗食ゆえ、と自慢したいところだが問題はそこではない。人生100年(だそうだが)―。自分の末路は自分で考える、新「楢山まいり」が現実になっている。

 【石井秀一】

(日刊スポーツ I / 2023年6月)

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