最近、銀座へ通っている。
定年退職から3年目、銀座の灯が恋しくなった。独身寮の管理人、図書館通いも悪くはないが、いかんせん地元ばかりでは飽きがくる。通勤電車が懐かしい。
もはや銀座を飲み歩く身分では、もちろんない。かつての遊び場を横目に、とあるマンションの一室に通う。NPOの、子供たちと大自然を結びつけ活動する法人でのボランティア、その事務局で雑用をこなしている。
午前10時すぎ。久しぶりに駅舎に立つと電光掲示板が一新され、ホームドアが出現した。“通勤電車”はマスク一色、乗客がうつむき加減でひたすら沈黙を守るシーンは、以前には見られなかった風景だが、一方車内広告が減ったのはコロナ禍ゆえであろうか。
揺られながら、ふとこんな文章を思いだした。小説家、劇作家、放送作家として活躍した井上ひさしさんにまつわる記述である。三女の井上麻矢さんが書いている。引用する。
私は父の原稿の合間にキャッチボールをするために、野球少女になった。父に教わって、スコアブックを付けて、小学校の時は野球一色の女の子だったので、幼い頃は甲子園や後楽園へ朝から父と出かけた。
父と電車に乗って出かけた時のことを昨日のことのように私は覚えている。
市川から後楽園までは総武線で一本。父は女の人のように足を揃えて座っていた。「どうしてパパはそんなに小さくなって電車に乗るの?」と質問すると、人の迷惑にならないようにするためだと答えた。自分が出来ることは何かを考える。それが社会性だと教えられた。
電車の中で長い傘を横に持ち、出入り口に突っ立ったままでいる人を見ると、社会性がないと思ってしまう。
トイレから出る時も、外に人がいないか注意してドアを開ける。こういう細かな積み重ねが、社会では大切だ。玄関の靴は揃えて脱ぎなさい。次に玄関から入ってきた人が靴をきちんと脱げるように、一事が万事、次の人のことを考えて行動しなさい。次の人がやって来た時にその人が嫌な思いをしないかと考えることが社会性なのだからと。
「夜中の電話 父・井上ひさし 最期の言葉」(井上麻矢著=集英社インターナショナル発行)
私の、かつての通勤電車はその日の、仕事の段取りに頭を巡らす時間帯であった。肩をいからせ、足を踏みつけられれば血走った目で相手を睨みつけた。人の背中を押しのけてホームへ飛び降りた。「次の人」はいたはずだが、見えないふりをしたのだろう、多分。
ラッシュアワー明けのドロンとした車内。新型コロナの渦中で「社会性」を問うてみる。
(日刊スポーツ I / 2021年2月)
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