新聞に乗らない内緒話

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コラム

遠いおにぎり

イチローの引退会見は各方面に話題を呼んだ。
日ごろの、難解な「イチロー節」は影を潜め、長時間にわたるその語り部ぶりは彼の人生観、哲学を余すことなく披露したようだ。

世間はあまり話題にしなかったが、私が注目したのは弓子夫人をねぎらったくだりで、
「一番頑張ってくれたと思います。ゲーム前ホームの時は、おにぎりを食べるんですね。妻が握ってくれたおにぎりを。その数が2800くらいなんですよ。3000いきたかったですね。そこは3000個握らせたかったなと思います。頑張ってくれました」
華々しい活躍を支えたのはどこの家庭でもありそうな食卓の風景で、異国での彼は「外国人」であったが、一方日本人の心根、ぬくもりを生活の一部に宿していたことになる。

おにぎりの起源は1987年(昭62)年、弥生時代の遺跡・杉谷チャノバタケ遺跡(石川県中能登町)で出土した米粒の炭化塊にみえるそうだ(「おにぎりと日本人」増淵敏之著・洋泉社発行)。食用というより供え物としての色彩が強く、その後は戦国時代、日清・日露・太平洋戦争の兵糧として、そして庶民の大衆食として日本史の一部を担ってきた。

私の母は昭和初期、実家のある新宿から羽田空港近く穴守稲荷門前町の老舗へ養女としてもらわれていった。1894年(明27)に鉱泉が発掘され、以来温泉旅館業で繁栄したこの地は海水浴の避暑地としてもその名が広まった。国営飛行場「羽田飛行場」は1931年(昭6)に開設されている。
たいそう羽振りが良かったようで「自動車で歌舞伎座へ横付けすると役者たちが総勢出迎えてくれたものだよ」とは母の思い出話である。亡くなって久しいが、今でも役者紋の入った鏡台、桐タンスが二竿(ふたさお)、皮の破れた三味線が二丁、残っている。
仏壇に母の三味線姿をとらえた写真が飾ってある。養女時代のそれで長唄のおさらいでもしているのだろうか、きりりとした着物姿に(息子がこう書くのも気が引けるが)なかなかの美人である。

そんな生活に終止符を打たざるを得なくなったのは、1945年8月15日の終戦だった。GHQ(連合国総司令部)の占領政策により同年9月21日、48時間以内の近隣住民強制退去が命じられた。着の身着のまま土地を追われ、そして没落した。
父は瓦煎餅の職人だった。職人かたぎで、黙々と煎餅を焼くばかりで売りには出ない。母は焼きあがったそれを背に負い、両手にぶら下げ問屋街を訪ねて歩いた。

三筋の糸を操った指が節くれ立ったそれに変わっていったのは私が子供の頃だった。その指で釜の底にこびり付いたオコゲに爪を立て、こそげ握ってくれた。三角形ではなく丸めただけの、武骨なおにぎりであった。
イチローの言葉から遠い昔を思いだし、ただ書いてみた。

(日刊スポーツ I / 2019年5月)

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