新聞に乗らない内緒話

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コラム

生き物の死にざま

 登録しているシルバー人材センターから仕事の依頼が舞い込んだ。「薬剤投入業務」とあり、5~8月の実施期間内に仕事を消化すればよい。日ごろの独身寮管理人業務とは別の、まぁアルバイト募集である。

 具体的には、地域の区道にある雨水マスに蚊など発生を抑える錠剤を投入する。歩道脇にある、二列ほどの穴に路上の雨水が流れ込む、その一時的な受け皿が雨水マスだ。平成26年のデング熱発生(国内発生は70年ぶりだった)は記憶に新しい。
蚊といえば子どもの頃、脇道の防火槽や薄暗い水たまりにぼうふらが湧いた。まるでフラダンスでもするようにユラユラ揺れており、上からサッと手をかざすと一斉に水中に沈み込んだ。蚊帳(かや)を吊り、蚊取り線香を焚くのが日本の夏で、ブーンという羽音を耳元で確認すると身構えた。

「生き物の死にざま」(稲垣栄洋著、草思社刊)、蚊にまつわる章を読んでいる。
人の血を吸うのはメスだけだそうだ。オスもメスも普段は花の蜜や植物の汁を吸って暮らしているが、産卵期となったメスは卵の栄養分としてタンパク質が必須になる。動物や人の血に含まれるそれは我が子を育てるため不可欠で、命懸けで人間に近づいてゆく。

近ごろの住宅は気密性が高い。人間のいる場へ侵入するのはまず至難で、たとえ幸運に潜り込んだとしても室内は防虫剤がまん延。さらに人間の肌に着地、気づかれないように針を刺して吸血するのだが、これがまた複雑な工程で(詳細は本を読んでもらいたいのだが)、作業は2~3分かかる。蚊の体重は2~3㍉㌘だが血を吸った後は5~7㍉㌘にもなり、その重い体をフラフラと中空に浮遊させ再び家外へ脱出、水の上で産卵をしなければならない。全ては腹に宿した命をつむぐため、である。以下、「生き物の死にざま」後半部分を引用する。

「ピシャリ」
空気を切り裂く大きな音がした。
ふらふらと飛んでいる蚊を見つけて、誰かが平手を打ったのだ。
その手のひらには、真っ赤な血がべったりとついている。
「嫌だわ。手に血がついちゃった」
人間は、ぺちゃんこになった彼女の体を乱暴にティッシュペーパーでふき取ると、それをゴミ箱に放り捨てた。 

もう夕暮れである。
外の木陰には、蚊柱ができていた。
ただ、それだけの夕暮れである。

(日刊スポーツ I / 2020年5月)

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