新聞に乗らない内緒話

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コラム

日本初のカーブ

 毎年10月14日は「鉄道の日」。1872年(明5)、新橋駅(後の汐留貨物駅、現在廃止)と横浜駅(現根岸線桜木町駅)間に日本初の鉄道が開通したことに由来する。
 鉄道黎明(れいめい)期の偉人に井上勝、平岡 凞(ひろし)がいる。どちらも「鉄道王」として後世まであがめられる存在だが、とりわけ、平岡は鉄道のみならず、「道楽大尽」としてその名をはせる。もちろん工部省鉄道局新橋工場の技師であった平岡は米ボストンなどで習得した車両技術を駆使、車両の国産化に大きく貢献した。
 まぁ、鉄道史、工業史としてはこれでいいのだが、スポーツ新聞としてはやはり平岡の業績、ベースボールの「輸入」と、日本初のクラブチーム「新橋アスレチック倶楽部」創設に注目せざるを得ない。
 78年(明11)、工場の仲間や学生たちを集めて作ったこの倶楽部は、つば広の白いキャップ、膝までのニッカーボッカーズボン、赤いストッキングというユニホームで、いかにもハイカラで、平岡の面目躍如といった風情である。一高(現東大)時代の正岡子規も平岡にベースボールを教えてもらい、倶楽部の一員にもなった。まだ「野球」という言葉も無かった時代である(後に、子規の2学年下の中馬庚が『野球』を造語する)。
 倶楽部は当初、汐留停車場南側にある広い野原のグラウンドで練習を行ったが、82年(明15)には品川停車場近く、八ッ山下の広場に専用グラウンドを造り、「保健場」と命名した。
 その跡地は、品川駅港南口から南へ歩いて10分ほど、もしくは京急線北品川駅から東へ歩いて3分ほどにある広大な土地である。現在は都バス品川車庫敷地で、ついたてのような都営北品川アパート(品川区北品川1の5の12)がランドマーク風だ。このグラウンドは昭和初期まで「品川八ッ山下野球場」として人々に親しまれた。
 また、米国から平岡が持ち帰った道具はバットと、ボール3個といかにも心細かったが、このころになると留学時代に知り合ったプロ野球選手スポルディング(後に運動具メーカーを設立)を通じて最新の道具、ルールブック、スコアブックが取りそろえられた。
 さらにチームも次々と生まれ、子規ら一高のほかに徳川家の流れをくむ「ヘラクレス倶楽部」など多くが設立され、いよいよベースボール時代が幕を開ける。
 平岡は「日本初のカーブ」まで披露している。不思議に曲がることから相手チームから「アメリカはキリシタンの国だから、切支丹伴天連の魔法を使うのもいいでしょうが、日本でその魔法を使うのは卑怯(ひきょう)」と物議を醸すなど、話は面白くなってゆく。
 あとは鈴木康允・酒井堅次共著「日本で初めてカーブを投げた男」(小学館刊)を読むしかない。もっともこの本、絶版とやらで「どこかこの本を再度世に出してくれる出版社は無いでしょうか」と筆者・鈴木氏は哀願調。「で、印税もまた…」とちゃかすと「平岡ほどの大人物がこのまま消え入っていいものですか」と真顔だった。

 【石井秀一】

(日刊スポーツ I / 2023年10月)

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