新聞に乗らない内緒話

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コラム

新入社員諸君!

4月1日―。
毎年この日付で「新入社員諸君!」という、全面広告が新聞に掲載された。スポンサーはサントリーのそれで、コピーは作家の、山口瞳が書いた。

例えばある年、スウェーデンの劇作家、小説家ストリンドベリイの警句を引用しながら、
「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である。」

働くのは会社のためでも家族のためでもない、自分のためである。
失意のときは、この言葉を思いだしてくれ給え。
気楽な家業だと思ったら大間違いだ。
常に安住するな。
しかし、この言葉の本当の意味がわかるのは、四十歳、五十歳になってからだろう。
新入社員諸君!
この人生、大変なんだ。
そうして、本当の酒の味がわかるのは、苦しみつつ、なお働いた人たちだけなんだ。

学生時代、山口瞳の熱心な読者だった。直木賞を受賞した「江分利満氏の優雅な生活」や「世相講談」など、その後のサラリーマン人生、世間というものをかみ砕いて教えてもらった気がする。

若い人にはいまや縁の薄い作家かもしれない。昭33年、開高健の推薦で壽屋(現・サントリー)に入社。伝説の、PR雑誌「洋酒天国」を編集。コピーライターとしての「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」は年配者には記憶があろう。「トリスおじさん」、アンクルトリスでおなじみ、イラストレーター柳原良平は当時の同僚である。山口瞳のコピーはその後倉本聡、伊集院静に引き継がれたようだが、印象に残っていないのは世俗にまみれた私自身が、彼らのメッセージを素直に受け止めるだけの、瑞々しい感性を失ったからであろう。

昭和53年4月1日。この日私は日刊スポーツ新聞社に入社した。社内見学などありきたりな行事を終え、新入社員6人は夕刻、会社近くの居酒屋で祝杯を挙げ、その後4人がジャン荘へ繰り込んだ。出身大学対抗戦の様相で、終わってみれば私だけが沈んだ。実力もなかったが運も無かったのである。阿佐田哲也の「麻雀放浪記」に「人はこの世に生まれる時、一定量の運を持っており、運と引き換えに金や名声を得、運を使い尽くしたときに死を迎える」とある。満貫を狙うばかりでは人生は成り立たない。配牌、場風を読むのは勝負の肝要である。運に見放されたら「降りる」。時節の「見きわめ」こそが明暗を分ける。

人生終盤、「降りる」ことばかりでささやかな平穏を得ている。

(日刊スポーツ I / 2019年4月)

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