新聞に乗らない内緒話

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コラム

人間の「分際」

 2012年3月11日と、日付を明確に記憶しているのはその日が東日本大震災からちょうど1年であったからだ。
 宮城県東松島市を正午に出発したバスは高速道路を一路、東京へと向かった。全行程の三分の一ほど、午後2時を過ぎると速度を緩め本線を外れ、パーキングエリアへと入線した。そこは自家用車で溢れ観光客たちが買い物を楽しんでいたが、バスから作業着姿の一団が次々と降車、見晴らしの良い場所に集結すると状況を飲み込んだようである。
 午後2時46分、一団は北東の方角へ向け一斉に合掌した。つられるように居合わせた観光客たちも手を合わせた。小さな呻き声を聞いたような気がする。どんよりと雲のたれ込めた、春まだ浅き日であった。
 不定期ではあったが、11年5月からボランティアとして現地に赴き、これがおそらく6回目の訪問であったと思う。まだサラリーマンではあったから土日を主体に2泊3日の日程を足かけ2年、都合7回こなした。
 当初は被災家屋、側溝のヘドロ掻き出しなど肉体労働が主であったが、訪問を重ねるうちにその活動は被災した人たちの、生活の質向上を目指すようになる。津波から逃れた家々を訪ね、ポストにチラシをまいた。
 「なにかお困りの事はありませんか。なんでもやります」。 
 かつて住宅のひしめいた土地ははるか海まで見渡せ、地盤沈下でひたひたと海水が寄せる。住宅地として再生できないのは自明であろう。高台に設けられた仮設住宅にゴーヤーの苗を運び込み、夏の暑さを遮る「緑のカーテン」を設置した。わずかに残された高齢者住宅で犬の散歩を引き受けた。草をむしり、整備した広場で週末、テントを張りカレーライス、ポップコーン,綿飴を準備した。家に閉じこもりがちな高齢者が日だまりを求めて集まり、子供たちの明るい声がしばし周辺の空気を和ませたが、おとなたちの姿はどこにも見あたらなかった。
 あれから10年、もう1度現地を訪ねてみたいが叶わないでいる。
 「『想定外』もヘッタクレもない。自然の力を想定して制するよりも、自分たちの限界を想定すべきだった。人間は人間の「分際」を弁(わきま)えるべきであった。今回の災害(東日本大震災)で私が学んだのはそのことである。」
 「文明の進歩というのは、私たちを果たして幸福にしているのだろうか、と思うんです。幸福を呼ぶと思って、一所懸命に進歩させたんでしょうけれども、今私たちが漠然と感じている不安というものは、文明が進歩しすぎたための不安ではないのか、という風に思います」。いずれの記述も作家・佐藤愛子の著書から拾った。
 私たちの目指した「未来」が問われ続けている。答えを求められている。一人一人に。

(日刊スポーツ I / 2021年3月)

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