新聞に乗らない内緒話

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コラム

「編集後記」の憂鬱

 「朝日ジャーナル」は1992年(平4)5月29日号(朝日新聞社刊=当時)で休刊している。59年に創刊、60~70年代のベトナム反戦運動、安保闘争、文化大革命などの左翼運動を背景に一時代を築いた。私が大学に入ったのは74年、燃え盛った大学紛争に間に合わなかった世代で、キャンパスはその埋(うず)み火を微かにはらんで揺らいではいたが、なおも校門脇でアジる、立て看板ほどの「革命」はもはや絵空事に映った。
 そんな若者であったが、出かける時にはこの雑誌を二つ折りして小脇に挟んだ。「右手にジャーナル、左手に(平凡)パンチ」といわれた時代で、その内容もさっぱり理解できないくせに友人の前では進取を気取った。右手と左手、建前と本音を使い分けた。
 先日、「ラストメッセージ in 最終号」(辻野昭子・長谷川真理子編=第三書館刊)という本を入手した。休廃刊雑誌286のサヨナラ語録、とサブタイトルがついている。「虎は死んで皮を残す。人は死んで名を残す。雑誌は休刊して編集後記を残す」とはなるほどで、86~93年の雑誌を対象に、実際の「編集後記」誌面を蒐集、コピー、編集している。
 バブルが弾けたころで、急激な経済変化に伴う大幅な広告収入減、編集経費増大、読者離れが休刊の主要因だが、中には「会社からの一方的な決定により」とその独善を指弾する声を綴った後記もある。いずれにせよ複数の原因が絡み合い、創刊当初の高邁な夢を手放さざるを得なくなった編集者たちの無念累々、その墓碑銘と言ってよい。
 さて私の、進取の象徴・朝日ジャーナルの編集後記もさぞ悲嘆まみれと踏んだが拍子抜けの明るさである。最後の編集長となったあの下村満子(業界では有名人である)は「最終号!です。通常号の倍近いページ数。出血(いまさらどうってことない)大サービス」と書き、発行後は「打ち上げ旅行に出かけます。行き先は未定」。後に「週刊朝日」を再興する山口一臣はまだ下っ端部員らしく編集後記末尾にやっと登場。「ボクがスーパーマンだったらなぁ。赤字雑誌なんて、あっという間に建て直せたのに」と屈託がない。
 ただ、前述「ラストメッセージ in 最終号」の「あとがき」は「版元出版社の冷たい対応」に首をかしげる。かつて収益を支えたであろう雑誌たちに対し「休廃刊したものについては、その誌名すら確認したくないという態度がしばしば見られた」「休廃刊した後は問い合わせにも一切答えたくないというのは理解に苦しむところである」と語る。
 「休刊」とは告知するが、実際は「廃刊」が大前提で、その後ろめたさが一層の「冷たい対応」につながってゆく。私もサラリーマン時代の2年間出版社に出向、編集長を務めた。赤字解消が本社からの命題だから採算のとれぬ複数雑誌をのっけから「廃刊!」。その時の、生え抜き編集者たちの顔を思い出す。建て前と本音をないまぜにした「編集後記」を書き上げ、取りあえず「休刊」として告知したが、やはり復刊はならなかった。
 その出版社は荒療治で一時黒字になったが、のち社内組織再編で消滅している。

(日刊スポーツ I / 2020年11月)

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