築地に「O」というてんぷら屋がある。
林立する、無秩序なビル群の底へ追いやられたようなそこは木造二階建てで、引き戸の上には少々汚れた、水色ハンケチ大が連なって、どうやらこれが暖簾であるらしい。外壁の、地口行灯のようなそれに店名があり、ここがただの民家ではないことを告げている。
道沿いの勝手口に小さな三和土(たたき)があり、猫が一匹がいて、ペットハウス脇の座布団の上でいつも丸くなっていた。超越したような風情で、ひたすら眠りこけている。すでに、老いていたのかもしれぬ。
その眠り猫の居るここは、お座敷天ぷらの名店として知られているそうで、戦後、映画監督・小津安二郎の贔屓(ひいき)であった。原節子主演の「東京物語」、「晩春」、「麦秋」で知られた名監督、と書けば年配の方はご存知かもしれない。
二、三人用と五、六人用の二部屋しかなく、ゆえに一日二組しか客を取らないとは知人の話である。天ぷらのフルコースの最後は煎茶をかけた茶漬けで、これは小津の発案だそうで、当初は大きめに切った海老のかき揚げに出汁(だし)をかけたが、「呑んだ後でもさっぱり食べられる」との小津の意向でこのスタイルとなった。
残された小津日記、1935年(昭10)3月19日には、
春の夜をさらさら茶漬たうべけれ
との記述が残されている。戦前の日付だから、この店の茶漬けではなさそうだが、そういえば彼の作品に「お茶漬の味」という映画もある。嗜好(しこう)の一品、ということであろう。
付け加えるのならば、小津にゆかりある女性の旅館がこの店に近く、店前はかつての築地小劇場、その跡地。勤務した松竹本社もすぐ傍にある。さらにガンで入院したのが築地の国立がんセンターで、葬儀は築地本願寺で執り行われている。この地は彼の、人生の筋道にあたるのかもしれない。
ところで、件(くだん)の「眠り猫」である。
ある日の通勤途中、のぞいてみると姿が見えぬ。ペットハウスも片付けられていたから、この冬の寒さを逃れ、家の中にでも導かれたのであろうと推察したが、その後、勝手口にすっくと立った姿が確認された。元気でいたか、と安堵したが、その翌日も同じ立ち姿で居る。
近づいて、まじまじ眺めてみるとそれは石膏の、猫であった。座布団の上に鎮座するその前にはピンクの餌台が用意されていた。
(日刊スポーツ I / 2017年2月)
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